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いのちのスタートライン

いのちのスタートライン
著者
出版社 講談社
出版年月 2015年8月
価格 1,500円
入手場所 市立図書館
書評掲載 2020年8月
★★★★☆

 著者略歴には、その本のあらすじ以上に重要なエッセンスが含まれていることが多い。
 そのため、本を読む際には、まず巻末の著者略歴に目をとどめてしまう。
 1964年、長野県生まれ。名古屋大学大学院修了。石油会社に6年勤務の後、99年、シカゴ大学経営大学院MBA取得。99〜2014年、ゴールドマン・サックス証券株式会社に在籍という略歴は、だれもがうらやむ輝かしい経歴だ。
 だが、そのあとから状況が一変する。
 07年、42歳の時に精巣腫瘍(睾丸ガン)の最終ステージと全身転移、さらに合併症・間質性肺炎を発病。5年生存率20%以下と続くわずか数行に集約された経歴に、著者の人生のクライマックスが表れている。

 たしかに、略歴前半だけ見てしまうと、とても鼻持ちならない人物を想像してしまうのだが、実は貯金をはたいて自費留学し、修了時の所持金はわずか80ドルに過ぎなかったというエピソードを本書で語っていて、この留学がいかに薄氷を踏むスリリングな挑戦であったかを教えてくれる。
 実力主義の業界で働くことを希望していた著者はしかし、いざその世界に身を置き、愕然とする。
 毎日、毎日、未解決の案件が積み上がっていくと、さすがに精神的にまいってくる。しかも、毎朝6時台に出社して、家に帰るのが夜中の0時を過ぎる日々だ。週末も朝から会社に出て、未処理の仕事をこなす。強烈なプレッシャーのなか、少しの休みもなく、すり切れそうに働いていた(P25)
 そんな激務のなかでありながら、顧客から勧められたランニングの世界に、著者はのめりこんでいく。
 しぶしぶエントリーしたホノルルマラソンを見事に完走し、その後は週末のランニングが習慣となり、貴重なストレス解消の時間となったようだ。
 その熱意は留まるところを知らず、なんとサロマ湖100kmウルトラマラソンを4回も完走する堂々たる戦歴だ。

 家庭生活でも、2人の子どもに恵まれ、貧しかった留学生活から4年、39歳になった私は、何もかもが充実し始めた頃だった(P46)と振り返っている。
 だが、好事魔多し。翌年冬の軽井沢でランニング中に転倒し、骨折と靭帯断裂の大けがを負い、ボルトを入れる大手術に至ってしまう。
 手術は成功し、あとはリハビリに専念するだけ。そう信じていた著者に、さらなる「まさか」が待っていた。
 体温が平常に戻らず、いつの間にか睾丸の大きさが左右全く異なっている。
 宣告された病名は「精巣腫瘍(睾丸ガン)」で1週間後に緊急手術を行うという。
 手術をすればこの不安から逃れられる。そう信じていたのだが、ガン摘出手術後に全身への転移が見つかり、合併症で間質性肺炎をも発症してしまう。
 迫りくる死への恐怖と、抗ガン剤による激しい副作用と闘い、体力が極限まで奪われるなか、外出した際にふと目にした、お腹がでっぷりした男性の行動が、著者の心をさらにどん底へ突き落としてしまう。
 「カップラーメンにタバコ、そしてメタボの彼のほうが、俺より健康なんだ・・・」
 タバコを吸わず日常的に運動し健康に気をつけていた自分が、今やハゲ頭のガン患者。なぜ、こんな皮肉なことになったんだろう
(P130)。

 ガン患者が抱えるのは、精神的、肉体的な苦しみだけではない。この先、「普通の生活」に戻れるのか? 職場復帰はできるのか?
 度重なる不安に襲われながらも、家族の支えを自信に、ついに手術に踏み切る。
 簡単に言うようだが、背骨への麻酔注射に脂汗がにじみ、切開した腹部はじくじくと痛む。術後はまともに声も出せないほど衰えた筋力と体力を取り戻すために、厳しいリハビリを繰り返す毎日だ。
 心が折れそうになるなか、それでもなお、サロマ湖への出場をあきらめない著者の姿に、思わず涙腺が緩んでしまう。
 そういえば、私もランニングを愛する仲間のひとりとして、有酸素運動は生活習慣病を予防し、病気になりにくいと信じている。
 だが、過信と油断は禁物なのだと思い知らされた。本書に登場するランス・アームストロング(プロサイクリスト)の言葉を借りれば、どんなに品行方正で、体が丈夫な人でも癌になる(P68)のだ。
 そして何より、絶望的な状況でも一縷の希望を捨てずに、前に進もうとする不屈の精神こそ、生きるために最も重要なエッセンスだということを、本書から教えてもらった。

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