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長距離を走りつづけて

長距離を走りつづけて
著者 村社講平
出版社 ベースボール・
マガジン社
出版年月 1976年7月
価格 \1,800
入手場所 渋谷
ビブリオスポーツ
書評掲載 2014年8月
★★★★☆

 ナチスドイツが台頭し、国際的な対立が深まろうとする時代に開催された1936年のベルリンオリンピック。
 のちに芸術的過ぎると賛否が渦巻いた記録映画「オリンピア(民族の祭典・美の祭典)」は、このベルリンオリンピックを題材としているのだが、実はこのなかでは多数の日本人アスリートが登場している。
 三段跳びで優勝した田島直人をはじめ、競技が深夜に及んだ棒高跳びで銀・銅メダルを獲得した西田修平、大江季雄らの活躍に胸躍らせるのだが、とりわけスタジアムを興奮させた競技が、男子10,000mと5,000mだろう。
 190cm前後と長身揃いのフィンランド勢3選手を率いて、160cm余りの小柄な日本人が果敢に先頭を牽引する姿に、観衆は「ム・ラ・コ・ソ」「ム・ラ・コ・ソ」の大声援を贈っていたシーンは、この映画のハイライトのひとつだ。

 1905年・宮崎県生まれ。その年に締結された日露講和条約が、父と同じ出身である小村大使の偉業であることから、講和の「講」と平和の「平」をとって名付けられたという著者はしかし、自らを「戦争の落とし子みたい(P12)」と称している。
 たしかに、著者自身の日誌をもとに構成された250ページに及ぶ本書からは、常に戦争に翻弄されてきた様子が伝わってくる。
 ベルリン大会で入賞し、1940年の東京五輪に向けて決意を新たにするも、食べるものにも苦労し、スパイクシューズの製造も中止される国家的な緊急事態を迎えるなかで練習を重ねていたが、遂には五輪返上の悲報に接し、再チャレンジの機会は奪われてしまう。

 だが、著者は「戦争さえなければ」などと悔やんでいる様子はない。
 命からがら終戦を迎えた後には、毎日新聞社に入社し、毎日マラソン(現在のびわ湖毎日マラソン)や全国高校駅伝の創設に尽力するなど、長距離・マラソンの底辺拡大に精力的に活動する。
 それだけではない。
 選手として第一線を退いた後は、コーチング活動にも力を入れ、広島庫夫、沢木啓祐、寺沢徹、円谷幸吉など、国際舞台で活躍する選手らの育成にも関わっていく。
 のちに宮崎県を本拠地とする旭化成をはじめとした、20世紀後半の男子マラソン黄金時代の礎を築いたのが、著者であると言っても過言ではないだろう。

 それにしても、本書を読んでいると、現代が平和で裕福な時代であることの幸運を感じずにはいられない。
 それは厳しい時代を生き抜いた著者自身も当然実感しているようで、自身より才能豊かな選手が数多く生まれ、強化合宿も豊富に開催されている一方で、国際大会で結果を残せない状況を嘆き、「候補選手があまりにも恵まれ過ぎてねばりを要求される長距離の場合、強化合宿に恵まれる感激性が練習に結びつかぬのではないかと思いたくなる。(P246)」と日本の競争力低下を憂慮している。
 残念ながら1998年に92歳で他界されたが、この不遇の時代に、スポーツで世界を熱狂させた凄い日本人がいたことは、陸上競技関係者として記憶に刻みつけておきたい。

※ 参考書籍:ベルリンオリンピック記録映画を扱った「オリンピア ナチスの森で(著者:沢木耕太郎)」

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