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見つける育てる生かす

見つける育てる生かす
著者 中村清
(満薗文博 聞き書き)
出版社 二見書房
出版年月 1984年5月
価格 \980
入手場所 N蔵書
書評掲載 2009年2月
★★★★☆

 「瀬古を育てた男」として知られる故・中村清。
 伝説の指導者としても後世に名を残している彼の訓話が、時には1時間以上にも渡り、「聖書」や「正法眼蔵」から得た話を、競技に絡めて熱く説いていたというエピソードは、今でも語り継がれている。
 中村はなぜ、「聖書」や「正法眼蔵」を読み込み、宮本武蔵の「五輪の書」を愛したのだろう。その答えが、本書にある。
 中村は、陸上競技は剣道や柔道と同じ「陸上道」であると豪語し、負けることはすなわち死を意味することであり、陸上競技においても、日々の命を賭した鍛錬が不可欠であると信じて疑わない。なるほど、一部の口さがない者から「教祖」と皮肉られる理由が分かる気がしてくる。
 だが、故障が続き、苦悩していた瀬古を前に、旧約聖書のヨブ記を繰り返し読み聞かせ、苦しみの末に得るものの尊さを説く姿は、まさに陸上道の伝道者であり、カリスマ性ある教祖と呼んでも過言ではないだろう。

 本書は、メダルを期待されたロサンゼルスオリンピック前に出版されているので、オリンピックに臨もうとする意欲や、ボイコットしたモスクワの借りを返そうとする気持ちが綴られているのではないかと想像したが、そんなことは全く意に介さず、それどころか、モスクワオリンピックのボイコットを前にして語っていたのが次の言葉であることに驚かされる。
 曰く、「出場できたら神に感謝いたします。そして、もし行けなくなったとしたら、もっと感謝します。モスクワ五輪以上にもっと大切なものを神が、中村と瀬古に与えてくださったものと受けとめます。(P248)」と冷静に語っている。
 この件については、後に瀬古本人は「本当は出たかった」と本音を素直に吐露しているが、さすがに「陸上道」を追及している中村は役者が違う。

 本書のテーマは、オビによると、会社で部下を持った上司や、教育者向けに出版されたようで、「勝つために部下をどう動かすか」「やる気の出させ方」などのテーマが並んではいるが、上述のように、ちょっと人並み外れた「中村哲学」は、ごく普通のサラリーマンには到底理解しがたいかもしれない。
 しかし、こんなことを書くと、天国から中村が顔を赤らめながら怒鳴りつけてきそうだ。なぜなら、瀬古を始めとしたヱスビー食品の陸上部員とて、走ることで給与を得るサラリーマンであり、しかも、「瀬古の手取り月給は約十六万円(P33)」に過ぎないという。
 桁違いの支度金を提示する大企業からの誘いを断り、多額のコマーシャル収入も身障者団体に寄付してしまう。現代的な価値観からすると、とても信じられない話だが、物欲によって競技する選手なんぞは決して一流になれないという、強い信念が伝わってくるようだ。

 オリンピックで勝つという名誉欲でも、高い報酬を得たいという物欲でもなく、ただひたすら陸上競技に陶酔した彼を突き動かしていたものがなんであるのか、謎は多い。一部では、かなり自己顕示欲は強かったとも言われているが、それだけでこれほど魂を揺り動かす言葉は出てこないだろう。
 そして、良い意味にも悪い意味にも、もはやこれだけ常軌を逸した、個性の強い指導者が世に出てくることも、ないのかもしれない。

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