トップページへ戻る全作品リストへ戻る人物伝作品リストへ戻る

私が欲しかったもの

私が欲しかったもの
著者
出版社 双葉社
出版年月 2021年3月
価格 1,300円
入手場所 平安堂書店
書評掲載 2021年3月
★★★★☆

 2005年3月に行われた名古屋国際女子マラソンで、渋井陽子ら並みいる優勝候補を置き去りにし、初マラソン・初優勝の快挙を成した23歳のシンデレラガール。
 それが本書の著者・原裕美子の華々しいデビューだった。
 同年8月の世界選手権ヘルシンキ大会でも、日本勢トップの6位入賞を果たし、高橋尚子、野口みずきに続く次代のエースとして期待されていた。
 個人的には、彼女の走りは上下動が少ない軽やかさが特徴であった一方で、高橋、野口らに比べて圧倒的に線が細く、華奢な印象が残る選手でもあった。

 たしかに、軽量であることは長距離走において物理的優位に立てる重要な要素だ。
 事実、著者が所属していたチームでは、徹底した体重管理を強いていたのだが、なんと著者は減量への強迫観念から、食べたものを吐くことで摂取カロリーを抑制する術を覚えてしまったという。
 それだけではない。
 幼少時に経験したいじめから、1番になることこそ自分の存在意義であることを自覚していた著者にとって、周囲の期待がいつしか過剰なストレスに変わっていた。
 自分では抱え切れないほどの悲しみや痛み。その苦しさを忘れさせてくれるのは、大量の食べ物を胃に詰め込み、吐き出しているこの瞬間だけです(P2)と、過食と拒食が常態化してしまう。

 吐くことによって必要な栄養素が摂取できていないことが、度重なる故障につながり、それがさらなるストレス増加という悪循環に陥っていたのだろう。
 しかも合宿先では、外出も制限され、財布さえも監督に没収される管理下において、ついに万引きという犯罪行為に手を染めてしまう。
 この時は食べ吐きができないストレス(P142)から衝動的に起こしてしまった過ちではあったものの、同社を離れて以降も、この衝動が抑えられることはなかった。
 その背景として、競技で思うように結果が出ないストレスに加え、信頼していたコーチに騙されて奪われた貯蓄や、一方的な婚約不履行など、私生活での大きなトラブルもまた、著者の心を蝕んでいたに違いない。

 度重なる警察沙汰により、家族との関係も険悪になり、自分を責める毎日だったが、逮捕も6度を数えるに至り、弁護士から紹介された専門施設で、ようやくここで、私は自分の万引きが「病気」であることを知りました(P219)と振り返り、適切な治療によって克服できることに衝撃を受けた。
 減量は飢餓という過酷な状態を作ることがあります。飢餓に対しては摂食本能が激しく働きます。(中略)原さんの場合は摂食障害もありますが、狩猟あるいは採集の行動を司る神経活動も、激しく働く状態になったので、万引きをしてしまうのです(P220)と科学的に語る専門家の解説は、摂食障害と窃盗症が密接に絡む精神疾患の複雑性を、わかりやすく伝えてくれる。
 施設での生活は単調で地道な治療でもあったが、これまで悩み苦しんできた著者にとって、人生の大きな転機となったに違いない。
 犯罪者であることに後ろめたさを感じ、外出すらも控えていた著者ではあったが、同じ苦しみに悩む人たちに、克服しようとする自分の姿を見てもらう(P238)、という償いの意識で、メディアからの取材にも応じるようになった。
 栄光と転落を何度も味わいながら、それでも人生はマラソンと同じ。楽なことよりもつらいことのほうが多い(P278)と吹っ切れたように語る姿に、励まされる読者は少なくないだろう。

トップページへ戻る全作品リストへ戻る人物伝作品リストへ戻る