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冬の喝采

冬の喝采
著者
出版社 講談社
出版年月 2008年10月
価格 \2,000(税別)
入手場所 bk1
書評掲載 2008年10月
★★★★★

 早稲田大学の金山雅之。およそ30年も前に箱根駅伝を走り、20kmの北海道ロード記録を塗り替えたほどの選手だが、全国的には全く無名と呼んで差し支えないだろう。だが、作家として数々のヒット作品を世に送り出している「黒木亮」の名前ならば、どこかで見覚えがあるかもしれない。
 私も数年前に、アメリカでの一大会計スキャンダルを描いた「小説エンロン」を読んだことがあるが、とても専門的で臨場感に溢れる小説で、彼の作品をまた読んでみたいと思っていた。
 黒木が学生時代に箱根を走ったというエピソードはどこかで見た記憶があるが、まさか自身の競技人生の一代記を描いた自伝的小説が出版されようとは思ってもみなかっただけに、本書を偶然インターネットで見つけたときには胸が高鳴って、すぐに注文してしまった。
 そしてその内容たるや、期待にたがわぬ珠玉の作品に仕上がっていて、600ページを超える長編ながら、どんどんと作品の中に引き込まれてしまい、1週間足らずで読み終えてしまった (あまりに夢中になりすぎて、通勤電車内で読んでいたら、降りる駅をうっかり過ごしてしまったぐらいだ・・・)。

 ストーリーは、念願の箱根駅伝で、首位で瀬古利彦からタスキを受け、伴走ジープに乗る中村清監督から叱咤されている回想シーンから始まるのだが、いきなりクライマックスが始まっているので、「オヤッ!?」と思わされてしまう。そもそも、これほど有名な作家が、あの世界の瀬古からタスキを受けたランナーだなんて、にわかに信じられないので、これは夢の中での出来事なのではないかと錯覚させられる。それはあたかも、スタート直後に猛スピードで飛び出して、レースをかく乱させている選手を見ているがごとく、「この小説の中で、あの瀬古と走るのか」と考えるだけで冒頭からワクワクしてしまう。

 プロローグを終えると、一転して早春の北海道で、はつらつと走る少年にフォーカスが当てられる。中学時代の金山(黒木の本名)だ。
 金山は走友会で社会人選手らと練習を重ねながら、高校1年生で早くもインターハイに出場する。しかしそこで金山は、1学年上の瀬古の走りを目にして、頭を一撃されたほどの衝撃を受けたと回想している。
 初めての全国大会で大きな刺激を受け、ますます練習にのめりこんでゆく金山ではあったが、その後は度重なるケガに泣かされ、早大へも一般入試を経ての入学だった。
 走りたいのに走れない無念さから、一時は目標を失いかけたものの、競技への情熱は捨てきれず、同好会を経て競走部の門を叩く。
 そこで金山は初めて中村清と出会うのだが、それ以降、瀬古や中村の伝説的なエピソードが数多く登場し、著者の卓越した文章力によって、当時の様子が目に浮かぶように映ってくる。
 たとえば、金山が箱根予選会を間近に控えた大事な時期に、ケガをしてしまった時の練習の様子はこうだ (以下はP270より引用)。

 金山 「ジョッグならできるんですが、全力疾走をするのはちょっと・・・」 わたしは怪我の状況を説明した。
 中村 「走れないのか」
 「ちょっと・・・難しいと思います」
 老人は一瞬考えてから口を開いた。「走ってみなさい。もう予選会まであと一ヵ月しかないんだよ。お前がしっかりしなけりゃ、チームが困るんだよ」
 「・・・はい」 走れば絶対に悪くなると思った。しかし監督は、自分から見れば神様である。何か考えがあるのかもしれない。 (中略) (監督を信じて、ついていかなくては・・・) 不安と神頼みが入り混じった気持ちで、スタート地点についた。
 (中略)
 翌日 ― 奇跡は起きず、ジョッグもできなくなった。東伏見のグラウンドで、中村監督に、走れなくなったと報告すると、烈火のごとく怒りだした。 (中略)
 「俺が走るなといったのに、走るからそういうことになるんだ!」
 耳を疑った。
 (何てことをいうんだ! 走れといったのは、あんたじゃないか! 俺はあんたを陸上の神様だと思って、その言葉に自分の身を委ねたんだ。それを・・・) このじじいは神様でも何でもない、生身の人間なんだと思い知らされた。
 「なんだ貴様のその顔は! 反抗的な顔をしやがって!」
 一瞬むっとしたのが、相手の怒りに油を注いだ。
 「だいたい、お前は生意気なんだ! (中略)」 雨あられと降り注ぐ罵詈雑言は、三十分以上も続いた。

 思わず電車の中で、噴き出しそうになってしまったくだりだ。いや、もしかしたら噴き出していたかもしれない。
 なんというリアリティなんだろう。
 これまで私は、瀬古や中村を題材にした木村幸治や石井信らの作品をむさぼるように読んできたが、当事者からの視点で生の状況を描いた本書を読むと、それらが急に「きれいごと」だらけに思えてきてしまう。
 それほど本書は、自らの過去を飾らずにさらけ出しながら、冷静に当時の様子を振り返っている。
 なかでも、ケガをして走れない自分に情けなさを感じながら、悶々とやり場のない気持ちで日々を過ごす姿などは、似たような経験を繰り返してきた私にとっては共感を禁じえなかった。

 これまでスポーツ選手のノンフィクションや伝記といえば、トップクラスの選手やコーチに限られていた気がする。本書は、たとえ無名であっても、どんな選手にもそれぞれに人生を賭けたドラマがあることを教えてくれる作品で、特に大学生以上の長距離ランナーには自信を持ってお勧めしたい傑作です。

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