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昭和十八年の冬 最後の箱根駅伝
−戦時下でつながれたタスキ−

昭和十八年の冬 最後の箱根駅伝
著者
出版社 中央公論新社
出版年月 2016年9月
価格 \1,800(税別)
入手場所 市立図書館
書評掲載 2016年11月
★★★★★

 大正9(1920)年以来、関東大震災や昭和恐慌の渦中においても開催され、今なお学生スポーツ界において絶大な人気を誇る箱根駅伝ではあるが、唯一中断を余儀なくされた時期があった。
 現在の史料では、昭和16(1941)年と翌年に代替地として開催された「青梅駅伝(東京青梅間大学専門学校鍛錬継走大会)」が、箱根駅伝としての歴史から除外されているが、戦時中の最後の箱根駅伝として著者が位置付けているのが、本書のテーマである昭和18(1943)年大会(第22回大会)だ。

 本書は、限られた当時の関係者や膨大な公的私的資料を頼りにしながら、「最後の箱根駅伝」前後の国情や競技環境を推測し、学生ランナーがどのような思いでこの大会に臨んだのかを、丹念に取材しながら浮き彫りにしてくれる骨太のノンフィクションで、貴重な写真とともに当時の様子を生き生きと蘇らせてくれる傑作だ。
 とりわけ興味を惹かれた場面が、当時から駅伝が通らなかったら正月は来ない(P27)とまで人気を博していた箱根駅伝が、「国家総動員」と言われる戦争に巻き込まれていくなか、ついに昭和15(1940)年には軍需物資の動脈線でもある国道1号線の使用許可が下りず、大会中止に至った前後だ。
 学生らの「とにかく駅伝をやりたい」という熱意により、関東学連が各方面と交渉を続け、全長107kmの青梅駅伝開催にこぎつけた経緯は、「ぜいたくは敵だ!」と言われていた世論のなかで、非常に勇気を要する決断ではなかっただろうか。
 また、これまで私は何冊もの箱根駅伝関連の書籍を読んできたと自負していたのだが、青梅駅伝という「幻の箱根駅伝」が存在したことを、恥ずかしながら本書を読んで初めて知らされた。

 では、昭和16、17年と代替地での開催を余儀なくされたにも関わらず、昭和18年に箱根に至る国道1号線での復活開催がかなった理由はどこにあるのだろうか?
 あの、東海道、箱根路を、どうして走れなかったのか。致し方ないこと(戦争激し)だが、残念でならない(P35)と、青梅駅伝を走った選手による日記に無念がにじんでいるように、箱根駅伝を憧れに上京した学生にとって、この場所が特別な舞台であることが伺い知ることができる。
 どうしても箱根駅伝を復活させたいと願う関東学連は「戦勝祈願としての駅伝大会」という要素を提案(P47)し、多くの関係者たちによる奔走の結果、陸軍は国道1号の使用をついに許可(同)する過程は、当時の状況を鑑みると、勝利を勝ち取ったと言っても過言ではないほど異例の交渉ではなかっただろうか。

 そして、ついに昭和18年1月5日に3年ぶりに箱根駅伝が帰ってきた。
 戦況が悪化するなか、この駅伝が終わったら次は戦争だという思いは当然ありました。学生生活最後の思い出として、全力で走ろうという気持ちでしたね(P127))と、4区で首位を奪取した慶大の児玉孝正のコメントが象徴するように、関係者の間でも「来年はない」という覚悟があったに違いない。
 事実、この大会を最後に学徒出陣を余儀なくされ、特攻隊として散った者やシベリア抑留された者など、戦争という悲しい歴史に翻弄された方々のエピソードは枚挙にいとまがない。
 しかしその一方でエピローグにおいて、改めて考えてみると「最後の箱根駅伝」を走り、生きて戦後を迎えることができた方々の中には、スポーツ実況のアナウンサーや経済評論家、植物に関するユニークな研究者、そしてハワイアンバンドのマネージャーにアイスホッケーの名選手と、実に個性豊かな生涯を送られた方が多い(P305)という数行には、微かに救われた思いであり、戦没者たちから託された「見えないタスキ」を胸に、駅伝で培われた使命感や責任感を精神的支柱として全力疾走したのが、彼らの生き様だったのではないか(P306)という著者の総括には共感を禁じ得ない。
 戦時下で箱根駅伝という希望を勝ち取り、そして敗戦という絶望を乗り越えてきた彼らは「強い」。心の底からそう思わせてくれるエピソードが本書には満ち溢れている。

参考書籍:澤宮優著 幻の箱根駅伝(河出書房新社刊)

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