トップページへ戻る全作品リストへ戻る人物伝作品リストへ戻る

帖佐寛章伝 マラソンへの憧憬

帖佐寛章伝 マラソンへの憧憬
著者 梶原學
出版社 ベースボール・
マガジン社
出版年月 2008年10月
価格 \2,000
入手場所 bk1
書評掲載 2008年11月
★★★☆☆

 順天堂大学陸上競技部の監督として、また陸連幹事として活躍し、日本の陸上競技界の重鎮でもある、帖佐寛章の生涯を振り返った自伝的エッセイ。
 戦争に翻弄された少年時代の帖佐は、幼い頃に父親の事業の都合で住居を転々とし、5回も転校を繰り返す中で、落第、いじめ、不登校といった挫折を味わされていたという。
 そんな不遇の時代を過ごしている帖佐にとって、陸上競技に出合ったことで自信をつけ、高校時代には中長距離種目で香川県、四国を制すと、全国大会でも決勝に進むなど、これまで辛苦をなめてきた思いの丈を走ることにぶつけていく。それはまるで、帖佐が本書で「人生は山登りである」と述べているように、自らの人生に活路を見出して、将来を切り開くのは誰でもない、自分しかいないのだという強い意志が感じられる。

 帖佐が陸上競技に携わってから以降の時期は、勝手ながら3つの時期に区分すると分かりやすいと思う。それは、選手時代、順大監督時代、そして陸連幹部時代だ。

 まず、選手時代だが、高校時代の活躍に加え、東京教育大進学後は、日本選手権を制すなどの華々しい成績を残してきた。
 練習では空腹をこらえながら農家の野菜をこっそり拝借したり、「蛙」を食べて(!?)飢えをしのいだりしたというが、戦後の混乱期に競技に専念することがどれだけ困難なことだったのかを今に伝えるエピソードだろう。

 そして第二に、「鬼」と恐れられた、順天堂大学陸上競技部の監督時代だ。
 大学卒業後には、知人の紹介で、草創期の順大体育学部に赴任し、まさにゼロから陸上競技部の土台を築いていくのだが 帖佐の真骨頂は、選手としてだけではなく、マネジメントの世界でも実績を残してきたことだろう。 
 手探り状態で部をけん引する一方で、帖佐の指導を受けたいという理由で、高校時代にスーパースターとして鳴らした沢木啓祐が入学して以降、インカレや箱根駅伝で優勝争いの常連に育てていくなど、指導者として数々の栄光を獲得した。
 なかでも、監督就任10年目で達成した箱根駅伝の優勝(1966年)、そして3年後(1969年)には関東インカレと日本インカレを初めて制し、監督在任中に関東及び日本インカレで6連覇という偉業を達成するなど、監督としての実績を挙げると枚挙にいとまがない。
 また、後継者の育成にも力を注ぎ、帖佐の指導のもとで選手として活躍した沢木も、同大学監督に就任して以降、優れた選手を輩出し、その伝統を承継することにも成功している。

 最後に、長きにわたって日本の陸上競技界の舵を取ってきた陸連幹部時代だ。
 世界で初めて女子マラソンの公式大会として産声を上げた「東京国際女子マラソン(1979年)」や、その後女子マラソン普及のためにスタートした「全国都道府県対抗女子駅伝(1983年)」などの実施のために精力的に活動し、成功に導くなど、近年、日本の女子マラソンが国際的にトップレベルにある礎を築いたといっても過言ではないだろう。
 また、帖佐の言葉を借りれば「魑魅魍魎の世界」であった陸連の人事抗争にも毅然と抗議し、改善に努めていくのだが、そのような姿は、曲ったことが嫌いな帖佐の生き方を表しているようだ。

 これまで陸連の内部事情なんて気にしたことすらなかったから、理事とか言っても、単なる名誉職なのではないかと軽く見ていたけれど、陸上競技に育てられた彼らが、陸上競技のために生涯を注ごうと奮闘している姿を知り、だいぶ見方が変わった気がする。
 北京オリンピックでは、お家芸のマラソンで男女とも惨敗の結果に終わったが、その後どのようにして立て直していくのか、一陸上ファンとして見守っていきたいです。

トップページへ戻る全作品リストへ戻る人物伝作品リストへ戻る